子供時代〜歌うことが大好きな少年が、プロの世界へ 三波春夫 芸ひとすじの生涯

大正12(1923)年7月19日、後の三波春夫となる“北詰文司”は、新潟県で、三人兄弟の末っ子として生まれました。7歳の時に母・ミヨが腸チフスで亡くなると、父・幸三郎は子どもたちを仏壇の前に集めて、お経代わりに民謡を歌い教えるようになります。文司は「江差追文」や「佐渡おけさ」などを懸命に覚えるうち、いつしか歌うことが大好きになっていました。

13歳の時に父の店が倒産。一家は東京に出て、文司少年は住み込み奉公することになります。その頃の唯一の楽しみは、やはり浪曲。そのうち、浪曲への思いが高じて寿々木(すずき)米若に入門願の手紙を送りましたが、弟子になることは叶わず、翌年、たまたま看板を見つけた「日本浪曲学校」に16歳で入学します。
毎日、仕事が終わると一目散に浪曲学校に行き、授業の前に三時間は一人稽古をする熱心さ。早々に校長からその美声を認められ、入学翌月には寄席「新歌舞伎座」で初舞台。芸名は“南篠文若”と名乗り、本格的にプロの世界に入りました。

母の実家にて
(右から3人目が1歳半の文司、左端が父母)

戦争とシベリア抑留〜『歌』で受け取った初めての花代 三波春夫 芸ひとすじの生涯

昭和19年、20歳の文司は陸軍に召集され、満州にわたります。翌20年、所属部隊はソ連軍から激烈な攻撃を受けてほぼ壊滅し、戦友たちが息絶えていくのを目の当たりにします。自身も爆裂の衝撃で人事不省に陥り、目覚めてみると、部隊はすでに退却した後。一人取り残された文司は聴力を失った状態で戦場をさまよいました。その後、退却部隊に合流することができ、幸いに耳も回復。このときは「また浪曲ができるぞ!」と喜びを感じたと言います。
1カ月ほどの退却行軍ののちに日本の降伏を知ったのは、母の命日でもある9月9日のことでした。

それから4年間、ロシアのハバロフスク、ナホトカの捕虜収容所で抑留生活を送ります。飢えと寒さの中で重労働の日々が続きましたが、そこでも文司の浪曲はすぐに評判になり、せがまれては披露しました。
あるとき、アパートの内装補修工事をしながら、覚えたての「カチューシャの唄」をロシア語で歌っていると、アパートの住民が集まってきて、笑顔で拍手の大喝采を送ってくれました。そして、その中にいたパン工場長の奥さんが、たくさんのパンや菓子をくれたのです。それは初めて“歌”で受け取った“花代”でした。

陸軍入隊(21歳)

この体験から、浪曲に比べて格段に短い“歌”というものが、国境や民族の壁も超えて人の心に素早く届くものだと感じ、また自分の歌声にも自信を与えられたといいます。
次第に“歌”への思いを強めながら、昭和24年9月、4年間の抑留を終えて、念願の帰国となりました。
文司はのちに、この抑留時代を“人生の道場”だったと述懐しています。

歌謡曲への転向〜より多くの人が喜ぶ世界へ 三波春夫 芸ひとすじの生涯

文司は、以前から三味線一丁だけの伴奏による浪曲には、もっと工夫が必要だと考えていました。そして、戦後の人々の生活の変化の中にあって、一席聞くのに長時間かかる浪曲はもはや時代に合わなくなってきていると感じていました。そこで思い至るものは、シベリアで学び直した歌の力でした。
その頃、浪曲の舞台では余興として民謡などが唄われていたのですが、南條文若も、妻のうまいアレンジの三味線に合わせて余興を演じ、たいへん人気を呼んでいました。
ある日のこと、客席の老婦人が立ち上がって叫びました。
「南條さんよ、浪花節はちょっとでいいから、歌をいっぱいやっておくれ!」
その声に周りも拍手喝采したのです。

《そうだ、大衆芸術というのは浪曲だけではない。今、大衆が喜び、待っているのは歌なんだ。もっともっと大勢の人が喜ぶ、歌の世界があった》

ついに歌手に転向する決心をします。
歌手になるには浪曲とは違う発声を学ばなければいけない。そう考えて早速、作曲家・佐々木章の門を叩きました。10代の若者に交じって、毎日レッスンに通いました。その熱心さはすさまじく、朝から晩まで師から離れず、佐々木のほうが音を上げたほどでした。

歌謡曲への転向を決意した頃

“三波春夫”デビュー〜『チャンチキおけさ』の誕生 三波春夫 芸ひとすじの生涯

昭和32年6月15日、文司は33歳にして、いよいよ歌謡界にデビューしました。新しい芸名は「三波春夫」。“三波”は文司の希望で、“人生の荒波を超えてゆく春のような明るい男”というものです。
最初に録音をしたのは、三波の浪曲家時代の自作曲に詩をつけた「メノコ船頭さん」でしたが、そのときにスタッフが会社に眠っていた詩の一つを出してきました。その詞こそ、「チャンチキおけさ」だったのです。
作曲を依頼された長津義司は、三波の浪曲家らしからぬ柔らかな美声と巧みな歌唱表現に驚きました。長津は歌詞を受け取った帰り道、心躍らせながら新宿の屋台に向かい、そこで浮かんだメロディーを箸袋に書きとめてすらすらと曲を仕上げたといいます。こうしてできた「チャンチキおけさ」と「船方さんよ」がカップリングされ、デビュー盤は全国発売されるや、瞬く間に爆発的な大ヒットとなったのです。

デビューの翌年には「チャンチキおけさ」と「船方さんよ」が映画化され、三波は相次いでの主演。初のハワイ公演も大盛況と勢いは止まらず、前年は多忙を極めて断っていた『NHK紅白歌合戦』へも「雪の渡り鳥」で初出場をします。以来、『紅白』には昭和61年まで連続29回出場、最後になった平成11年まで通算31回の出場を重ねました。

和服姿での初ステージ(昭和32年/東京浅草の国際劇場)

国民歌手へ〜『東京五輪音頭』空前の大ヒット 三波春夫 芸ひとすじの生涯

東京オリンピック前年の昭和38年6月、テーマ曲となる「東京五輪音頭」が発売されます。この歌は橋幸夫や坂本九など多くの人気歌手と競作することになりましたが、三波のレコードが他を引き離し空前の大ヒットを記録。オリンピックという世界に開かれた舞台に、国民は三波の歌を選んだのです。
昭和42年には、開催を3年後に控えた日本万国博覧会(大阪万博)のテーマソング「世界の国からこんにちは」が発売されます。
オリンピックと万博という、戦後日本の復興を世界に示す二大イベントのテーマソングを歌い、“日本の音頭取り”となった三波春夫は、名実ともに日本の“国民歌手”になったといえるでしょう。

東京オリンピックの顔として

長編歌謡浪曲〜ひたむきな努力の末、完成した『元禄名槍譜俵星玄蕃』 三波春夫 芸ひとすじの生涯

三波は歌手としてのゆるぎない地位を確立していきながらも、浪曲への思いはいつも心にありました。
しかし、演奏時間3分ほどの歌謡曲では、浪花節のように長い物語は語れません。そこで、浪曲の良いメロディーと大衆の心をつかむエッセンスを生かし、従来にない新しい音楽のスタイルを創ろうと考えました。まずは新たに自ら台本を書き、節をつけた浪曲を妻の三味線で語り、それを録音したものを作曲家に渡して、節(メロディー)を譜面に表してもらいます。さらに伴奏をオーケストラ用に編曲してもらい、その演奏をバックに歌うという形を創り出したのです。三波はそうして生み出した一連の作品を、“長編歌謡浪曲”と名付けました。

そもそも三波は、歌手になってからも、浪曲を日本の誇るべき“歌藝”と考えていました。しかし従来、浪曲は口伝であり、耳で聴いて覚えるもの。その上、浪曲の節は浪曲家がその時々の状況やお客の反応に合わせて臨機応変に変えていくため、長さや音程が決まっているわけではなく、譜面に残すという発想もありませんでした。三波が創始した“長編歌謡浪曲”の目的は、単にオーケストラつきの浪曲というだけではなく、浪曲という日本が生んだ至宝を、譜面化して後世に残すという、その点にあったといえます。

『元禄名槍譜俵星玄蕃』

また、浪曲の発声に関しても、譜面の勉強をするとともに発声法を変え、声を磨き、自分の歌声の最良の音色を探す試行錯誤を経て、独自の声調を開拓していきました。こうしたひたむきな努力を経て、『元禄名槍譜俵星玄蕃』などの“長編歌謡浪曲”を後世に残したことは、これらの優れた音楽感覚と開拓精神なくしては、到底成し得なかった偉業といえるでしょう。

「お客様は神様です」の真意とは? 三波春夫 芸ひとすじの生涯

「お客様は神様です」という言葉が流行ったのは、三波にも思いがけないことでした。それは昭和36年の春、地方公演の舞台での司会者とのやり取りが発端だったのです。

「この満員のお客様をどう思いますか?」
「うーん、お客様は神様だと思いますね」

何気ないやりとりに大歓声が沸いたことで、司会者が客席に向かって「なるほど、お米を作る神様も、子供を抱いた慈母観音様も、なかにはうるさい山の神……」と盛り上げると、客席は笑いの渦に。それから各地の公演でこのやりとりを繰り返すうちに、漫才トリオのレツゴー三匹がギャグのネタにしたことで流行語となったのです。

世界の子供たちと一緒に(歌謡生活20周年記念リサイタル『終り無きわが歌の道』)

その後、この言葉が独り歩きをし、本来の意図とは全く違う意味で使われたり、客へのへつらいと誤解されることもありました。しかしこれは、三波の信念――お客様の前に立つときは神前で手を合わせるときと同様に雑念を払い、心を澄み切った状態にしなければ、完璧な芸はできない――という、自らの仕事への強いプロ意識を示す言葉だったのです。

次の時代への挑戦 三波春夫 芸ひとすじの生涯

浪曲での初舞台から半世紀、昭和という時代が終わっても、三波の前進は止まりませんでした。
平成2年に長女・美夕紀がマネージャーになったころから、若いアーティストたちとの新しい活動の機会が生まれます。年齢やキャリアの差にこだわることなく、新たな試みには喜々として取り組みました。新しい時代の担い手に、常にまっすぐな敬意とあたたかな誠意を持ち、自身も刺激を受けながら前進していったのです。

こうした活動は、のちに長編歌謡浪曲で綴る組曲アルバム『平家物語』で結実することになります。構想から10年。変わりゆく時代の中で変わってはならない日本人の心のあり方を示したいという思いを込めて、6年をかけて詩作を練り、平成6年にようやく完成を見ました。芸能生活55周年記念企画として発表され、この年の日本レコード大賞・企画賞を受賞します。

自宅書斎にて

平成6年に前立腺がんの告知を受けましたが、家族以外がそれを知ることはなく、それまでと変わらずに、“三波春夫”としての自らを全うすべく果敢に仕事に挑みました。やがて平成12年11月、故郷・新潟の生まれた町で行われた公演が人生最後のステージとなりました。
明けて翌・平成13年1月、娘にメモを取るようにと告げ、“辞世の句”を詠みました。

逝く空に 桜の花があれば佳し

その桜の季節の4月14日、77歳の春。妻にやわらかな笑顔を向け、「ありがとう、幸せだった」と伝えて、生涯を閉じました。
しかし、その歌声は今も、聴く人々に明るさと勇気を送り続けています。

※記事の内容は「三波春夫の世界」鑑賞アルバム『歌藝の真髄』より抜粋。

三波春夫の世界 CD全10巻

つやのある伸びやかな声と、圧倒的な歌唱力・表現力で、日本中をぱっと明るく照らした三波春夫。そんな三波春夫の、後世に残すべき名演を集大成したのが、『三波春夫の世界 CD全10巻』です。

「元禄名槍譜 俵星玄蕃」、「元禄花の兄弟 赤垣源蔵」など、三波春夫の真骨頂である長編歌謡浪曲の数々はもちろん、「雪の渡り鳥」や「大利根無情」、「世界の国からこんにちは」など、時代を象徴するオリジナルヒット名曲も一挙収録。さらには、歌謡曲・流行歌のカバーや、初CD化となるステージ音源も収録など、これまでに無かった、三波春夫ファン必携のCD全集となっています。

三波春夫を愛する人々の協力を得てついに誕生。宝物として、贈り物として、多くの方にご入手いただきたい豪華全集。あなたもぜひ、今再びの名演に、思う存分聴き惚れてください。

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