半藤一利先生×保阪正康先生
戦後昭和史を語る
生涯をかけ「昭和史」を調査し続ける
ノンフィクション作家の半藤一利さんと保阪正康さんに
「太平洋戦争と戦後の昭和史」について対談していただきました。
戦争体験者と真摯に向き合ってきた「昭和の語り部」は、
歴史をどのように振り返るのでしょうか。
聞き手:のかたあきこ(旅ジャーナリスト)
生涯をかけ「昭和史」を調査し続ける
ノンフィクション作家の半藤一利さんと保阪正康さんに
「太平洋戦争と戦後の昭和史」について対談していただきました。
戦争体験者と真摯に向き合ってきた「昭和の語り部」は、
歴史をどのように振り返るのでしょうか。
聞き手:のかたあきこ(旅ジャーナリスト)
半藤一利(はんどうかずとし) 昭和5年、東京生まれ。東京大学文学部卒業後、㈱文藝春秋(当時は文藝春秋新社)入社。『週刊文春』『文藝春秋』編集長、同社取締役などを経て作家に。『日本のいちばん長い日』『昭和史』をはじめ、数多くのノンフィクション作品を発表し、昭和史研究の第一人者として知られる。令和3年、逝去。
保阪正康(ほさかまさやす) 昭和14年、北海道生まれ。同志社大学文学部卒業後、編集者を経てノンフィクション作家に。主に日本近代史、特に昭和史の実証的研究を目指し取材。『昭和陸軍の研究』『昭和史 七つの謎』『あの戦争は何だったのか』ほか著書多数。「昭和史を語り継ぐ会」主宰。
ご自身の戦争体験をお話しいただけますか。
半藤 私は生まれ育った東京の下町で東京大空襲を受けました。数えで14歳以下は国の方針で疎開するのですが、私はその年齢を一つ超えていました。中学2年生で勤労動員として軍需工場で働くことを命じられ、零式戦闘機の弾を作っていました。東京大空襲の昭和20年3月10日には焼夷弾の直撃を受けて、必死に逃げて九死に一生を得たのです。一夜にして10万人もの死者を出した東京大空襲。私が焼け野原で見たものは、坂口安吾(*1)さんの言葉を借りれば「まるで焼鳥のように折り重なってる黒コゲの屍体」(『坂口安吾選集』)そのものでした。私が住んでいた墨田区はそのほとんどを焼かれ、呆然と焼け野原に立っていた記憶が鮮明にあります。社会人となり、以後生涯をかけて昭和史と向き合うことになりましたが、いつもこの時の惨憺(さんたん)たる光景が頭に蘇ります。その悲惨が浮かぶせいか、戦後、下町で暮らすことはほとんどありませんでした。
保阪 終戦の時、私は5歳でした。北海道の札幌出身ですが、戦時中は教師だった父の都合で函館に近い八雲(やくも)という町で暮らしていました。北海道は昭和20年7月14日と15日に室蘭と函館などが艦砲射撃を受けました。八雲から内浦湾の対岸に室蘭が見えるのですが、空襲の日は何百メートルもの火柱が上がっていたことを覚えています。
不謹慎な言い方になるけれど、それはきれいだと感じるほど現実のものに思えませんでした。アメリカの大型爆撃機B-29が“くの字型”に編隊を組んで青空を進む姿も、きれいだと感じた記憶があります。ジュラルミン製の機体が太陽にキラキラ反射して見えたのです。
半藤 私も日中の高々度をゆくB-29はきれいだと感じたことがありますが、3月10日は低空で攻撃してきたため、エンジンまわりが汚れていたことを覚えています。本当に大きくて怖かったのですが、「このやろう」という気持ちがありましたよ。
戦争体験は、地域や年齢によってずいぶん変わるといえるでしょうか?
半藤 これまでたくさんの戦争体験者に取材をして思うのは、「戦争観」は年齢やおかれた境遇、体験の有無や程度で天地ほどの差が出るということです。
保阪 住んでいた地域によって戦争の記憶は全然違います。同級生と話をすると東京の人が一番悲惨な話をするし、地方の山間部では戦争なんて知らないという人もいます。地域によって異なる体験ではあるけれども、記憶の最大公約数は何であるかを考えると、「戦争は二度と嫌だ」ということに行きつきます。
若い世代にも戦争観の相違があることに気づかされたのは、10年ほど大学講師をしていたときのこと。広島出身の女子学生が「他府県の子は原爆についてまったく知らない。こんなに知らなくていいのかと思う」と話してくれました。原子爆弾が投下された広島と長崎では、戦争体験者でない若い世代にも、その記憶が深く刻まれていることを感じました。
昭和史と向き合う時はいつも東京大空襲の惨憺たる光景が頭に蘇ると語る半藤一利先生。
半藤 地域によって戦争体験に違いをもたらした理由として、軍需工場の有無が挙げられるかと思います。軍需工場がない町はほとんど爆撃を受けていないのです。
保阪 どの地域にどれだけ爆弾が落とされたかという統計と軍需工場の有無は、比例するところが大いにあります。講演会で全国をまわると、来場者の反応にかなりの差を感じます。例えば松江や長野では鈍かった聴衆の反応も、名古屋や大阪では涙を流す方がたくさんおられました。
半藤 もう一つ、空襲も昭和20年5月過ぎあたりから、主要道路や鉄道、橋の被害の少ないことが挙げられます。そういうものが残っていたから、戦後復興がスムーズにいったと考えられます。アメリカは早い段階から戦後日本を見据えて、軍事施設だけを計画的に爆撃していたことがわかります。つまり日本軍の戦力喪失の事情に精通していたということです。
お二人がジャーナリズムの道を志したきっかけを教えてください。
半藤 戦時中の新聞は戦争をあおる記事ばかりでした。自分が新聞記者になって正しい情報を伝えたいと思っていました。が、大学時代はボート部にのめり込み、新聞社の就職試験を逃してしまった。結果的に文藝春秋に昭和28年に入社し、そこで運命的に坂口安吾さんと出会って、人生が変わりました。安吾さんは私に、歴史の面白さや解釈の多様さを教えてくださいました。
戦争の記憶の最大公約数は「戦争は二度と嫌だ」に行きつくと語る保阪正康先生。
その後、生涯をかけて「戦争」や「昭和史」と向き合うことを決定づけたのは、戦前の海軍記者として活躍した伊藤正徳(*2)さんとの御縁でした。取材を始めたのは昭和30年から。当時そういう活動をしていた人はいませんでしたから変わり者扱いを受けまして、名前が半藤だから「あの野郎は反動(ハンドウ)分子だ」と言われたこともありました。
戦後しばらくは左翼史観の影響で太平洋戦争を語ることは危険な輩と思われていましたし、まだ日本人のなかに教訓を伝え残そうという気持ちがなかったように思います。
そのために、ほとんどの人は戦争の事実を知らないということがわかりました。これは残していかなければと思いましたから、文藝春秋内で「太平洋戦争を勉強する会」を主宰して、戦争体験者から話を聞く機会を作りました。こうした広範な取材によって生まれたのが映画にもなった『日本のいちばん長い日』(*3)です。
保阪 私も、戦争の事実を検証したいと思ったからです。私たちの世代は子供時代に戦後民主主義の教育を受けました。小学校入学が昭和21年です。敗戦後連合国軍の占領下におかれるなか、この年に学制改革(*4)という教育制度改革が行われています。
戦後民主主義の始まりでしたが、当時は戦前とはまったく逆の教育が行われていて、簡単に言ってしまえば「戦前の日本は間違っていて、アメリカは正しい」というような単純な思想に子供たちは純粋培養されたのです。だから私も少年期には、戦争体験のある父親や先生に「なぜ戦争に反対しなかったのか」と食って掛かっていました。
大学時代に特攻隊員を描いた創作劇を書いたりしていて、本格的に物書きを志して編集者の道に進むのですが、そこで昭和45年の三島由紀夫事件(*5)をきっかけに、昭和初期に起きた「死なう団事件」(*6)について、本格的な取材と執筆を始めたのです。これが私のデビュー作です。
そうして戦前のことを調べていくうちに、「どうして日本は戦争という道を選んだのだろう。日本の兵隊はどんなことを考えて戦場に出かけて行ったのだろう」というような疑問が出てきて、その答えが知りたいと思うようになりました。
さしあたり東條英機について実証的に検証を行うことにしました。旧軍人など関係者に片っ端から「会いたい」 と手紙を出したところ、驚くべきことに8割の方が会うと言ってくれたのです。
語り残したいという思いが、みなさんにあったのだろうと思いました。何十人、何百人と取材を重ねるうちに、東條英機は、問題はいろいろあるにしても、状況のなかで最良の選択肢を選ぼうとして戦争を選んだことに気づいたのです。その記録は『東條英機と天皇の時代』という著書にまとめました。