町の少女から世界の舞台へ ”美空ひばり”の誕生 ひばり物語 ― 終わりなき歌の旅路 ―

町内で評判の“天才少女歌手”

昭和12年5月29日、横浜市磯子区滝頭、魚屋「魚増」の加藤増吉と喜美枝にはじめての子どもが誕生し、和枝と名付けられました。のちの美空ひばりです。

和枝は次第に“天才少女歌手”として町で評判になっていき、増吉と喜美枝はそんな和枝をなんとか世に出したいと思うようになります。
そこで、和枝をステージに立たせようと、町内の映画館「アテネ劇場」を3日間借り切って公演を開きました。和枝はまだ当時9歳でしたが、その歌声で客を魅了し、会場はやんやの喝采でつつまれました。

翌年、横浜で「のど自慢」が開催された時には、審査員として参加していた古賀政男に娘の歌を聴いていただきたいと、喜美枝は和枝を連れて乗り込みました。
和枝が当時大ヒット中だった『悲しき竹笛』を伴奏無しで歌うと、「この子はもう完全に出来上がっている」と、古賀は絶賛。そして喜美枝に、「きっと将来、本物の歌手になれる」と告げ、この言葉を聞いた喜美枝は、和枝を歌手として本格的に育てようと決意したのです。

幼い日のひばり。

日本全国、世界に広まった“天才少女・美空ひばり”

芸名“美空ひばり”をはじめて名乗ったのは、伴淳三郎が座長格のバラエティーショー『新風ショウ』で歌った時でした。その『新風ショウ』の評判は上々で、その評判を聞きつけて、美空ひばりの舞台出演の機会は急に増えていきました。

そして、『新風ショウ』でのひばりの姿をじっと見ていた福島通人が、やがてひばりと正式なマネージャー契約を結びます。福島の奔走でひばりは全国を歌って歩くようになり、歌って踊る天才少女・美空ひばりの噂はしだいに広く知れわたるようになりました。そしてだんだんと、映画へも出演するようになっていきます。

昭和24年9月、ひばりは、初めて自身のために書かれた映画『悲しき口笛』で主演を果たします。主題歌の『悲しき口笛』は45万枚という戦後最大のヒット曲となり、そしてこれを機に日本コロムビアと専属契約を結びました。

さらに、この映画の中の黒い燕尾服姿がアメリカの雑誌『ライフ』に掲載されたのがきっかけとなって、アメリカ在住の日本人から招待を受け、翌25年、ひばりはハワイ、アメリカでの海外公演を行いました。天才少女歌手のその名は、日本だけにとどまらずアメリカにまで伝えられたのでした。

少女歌手としてデビューした当時のひばり。

声変わりを乗り越えて… 『リンゴ追分』の誕生

順風満帆でスター街道を走ってきたひばりに立ちはだかった最初の関門は声変わりでした。喜美枝はじめ、ひばりの周辺のものは、だれもが内心で変声期を乗り切れるかどうか、不安に感じていました。

その声変わりを見事に乗り切ったことを証明してみせたのが、『リンゴ追分』でした。昭和27年4月3日からラジオ東京で放送された『リンゴ園の少女』の主題歌として米山正夫が作曲した曲で、追分調の高いトーンの部分がありましたが、ひばりは絶妙なテクニックで歌い上げたのです。
この曲は70万枚という日本歌謡界の記録をぬりかえる大ヒットとなり、昭和を代表する名曲として、長く歌い続けられる曲となっています。

のちに、ひばりはこう言っています。

15歳の時も、そしていまも、私はこの歌を歌い続けています。時代がどんなに変わっても、この歌は美空ひばりの歌なんだと思います。

芸能界の頂点の景色 絶大な人気を誇る歌謡界の女王へ ひばり物語 ― 終わりなき歌の旅路 ―

ひばりプロ設立 恋を経て、深い哀愁がにじむ歌声に

昭和33年、喜美枝と意見の食い違いが目立つようになったマネージャーの福島通人が去り、「ひばりプロ」が設立されました。社長はひばり、副社長が喜美枝、常務が小野満です。
当時、小野とひばりはひそかに結婚の約束をかわしていました。しかし、妻の座におさまるには、ひばりはあまりにも大スターで、「結婚したら、歌はやめる」との約束も周囲の事情から果たせそうもなく、結局二人の婚約はひそかに解消されてしまいました。

このころから、ひばりの歌にはこれまで以上の深い哀愁がにじみ出るようになり、2年後の昭和35年には、『哀愁波止場』でレコード大賞歌唱賞を受賞。
翌36年には、「発売レコード500万枚突破記念」のリサイタルを開きます。500万枚。何と大変な枚数でしょう。ひばり自身、よくぞ出したもの、と驚いていたといいます。

名実ともに日本の芸能界のトップに君臨していたひばり。毎月のように主演映画を発表、歌のほうでも第2黄金期とでもいうべきときを迎えていました。

幸せな結婚から一転、芸人としての危機

昭和36年9月、雑誌『明星』の新年号の対談企画で、ひばりは小林旭と出会いました。人気スター同士だった2人の話は、初対面とは思えぬほどはずみ、この一晩で恋に落ちてしまいます。
2人の交際は周囲からこぞって反対されましたが、それを押し切って、翌年5月29日に婚約を発表。ひばりは最愛の人の胸に飛び込んだのです。

昭和38年には世田谷区上野毛に新居が完成。しかし、実はこの新居に移り住むころには、2人の間にはすでに亀裂が走りはじめていました。

そして、ひばりは芸人としての最大の危機も迎えていました。東映との専属契約が切れ、レコードのヒット曲も生まれません。また、テレビに押され、斜陽時代を迎えようとしていた映画も以前とは内容が変わってきており、ひばりが好むものとは違ってきていました。

そんな危機を迎えたひばりでしたが、新たな一歩を切り開いたのは、やはり母の喜美枝でした。再起第一作は新宿コマ劇場の芝居で開けよう。喜美枝は捨て身で川口松太郎のところに足を運ぶと、死にもの狂いで懇願し、ひばりの再起のために作品を書きおろしてくれるよう約束を取りつけたのです。

この舞台『女の花道』の幕が切って落とされるころには、ひばりは離婚の決意を固めていました。芸人として生きていきたい、というひばりの気持ちを旭が理解して、離婚に踏み切ります。それは“理解離婚”とも報じられました。

離婚とともに、ひばりは以前にもまさる大車輪の芸能活動を復活させます。
昭和39年、発売と同時にすさまじい売れ行きとなった『柔』は、実に150万枚を売り上げ、翌40年には第7回日本レコード大賞を受賞。41年には古賀政男畢生(ひっせい)の名曲『悲しい酒』の発売。そして、ミニスカートに身をつつみ、今までとは一味違った曲調でファンを驚かせた42年発売の『真赤な太陽』。いずれも爆発的な売れ行きとなりました。

その後もその足を止めることなく舞台に立ち続けたひばりは、昭和44年はじめてのブラジル公演、翌年の紅白歌合戦の司会など輝きを放ち続け、記念すべき芸能生活25周年を昭和46年に迎えたのです。

度重なる悲しみを乗り越え、円熟の域に ひばり物語 ― 終わりなき歌の旅路 ―

どうしてこんな悲しいことばかり… 大切な人たちの死

昭和49年、ひばりは弟かとう哲也の長男、和也(当時3歳)を正式に養子に迎えました。冗談のように「ダンナ様はいらないけれど、子供はほしい」と言っていたひばりは、和也をわが子同然に愛していましたが、とうとう法律的にも正式に、和也と養子縁組を結ぶことになりました。

その後も精力的にリサイタルや舞台公演をこなしていたひばりでしたが、昭和56年7月29日、悲劇が訪れます。母、喜美枝が死去。一卵性親子といわれ、どんなときでもひばりを支えてきた母であり、戦後最大のプロデューサーと賞賛されるような才覚の持ち主でもありました。

ひばりはかねがね、「ママが亡くなるようなことあれば、歌手をやめる」と言っていました。孤独となったひばりは、本当に歌をやめてしまうのではないか。周囲のだれもが心の内でそう思ったほどでした。

そんなひばりをふたたび立ち上がらせたのは、ほかならぬ弟、哲也の力でした。少し前から「ひばりプロ」の代表取締役として立ち働いていた哲也。ひばりはその哲也に励まされるかのように、地方公演にも以前にも増して熱心に出かけ、信じられないくらいハードなスケジュールをものともせずにこなしていました。

しかし、神はひばりにさらに試練を与えたのでした。頼りにしていた哲也が昭和58年、心不全で死去。まだ42歳の若さでした。そして61年、もう一人の弟の武彦も42歳で突然この世を去ります。残る兄弟は妹の勢津子だけ。それでも、ひばりはファンに対しては一点の曇りもない笑顔を向けて、ろうろうと歌い続けていったのです。

鬼気迫る闘病生活と奇跡の復活

ひばりが体に変調を感じたのは、昭和60年5月のことでした。河口湖畔の富士桜カントリークラブで行われた「ひばりコンペ」で腰をひねった瞬間、ひきつるような痛みが走ったのです。それ以来、ひばりは時々腰痛を訴えるようになります。翌61年にはハイヒールを履けないほどになっていましたが、そんなそぶりは微塵も見せず、軽快に動き、晴れやかに歌い、ステージに立ち続けました。

しかし、四国巡業を何とか終えると、耐えきれない痛みのために、ついに病院を訪れました。
一日で検査結果を出してくれるというので、紹介された済生会福岡総合病院に飛んでいきましたが、その場で入院を申しわたされました。すでに骨盤の骨頭が壊死していたのです。ひばりは医師のすすめを忠実に守って療養に専念。入院したのは昭和62年4月21日のことでしたが、8月3日には退院。奇跡としかいえない回復ぶりでした。

退院のわずか2カ月後、ひばりは『みだれ髪』のレコーディングで、ふたたびマイクの前に立ちました。その3日前、たった10分立っただけ、というコンディションにもかかわらず、ひばりは少しの乱れも見せず歌い終わりました。

不死鳥、東京ドームで翔ぶ!

昭和63年4月11日、ひばりは東京ドームでの復活コンサート『不死鳥、翔ぶ!新しき空に向かって』を開催しました。入院4カ月、その後の療養期間8カ月を経て、ほぼ1年ぶりの舞台でした。
この日、東京ドームを埋めたファンは約5万人。そんな大観衆の前でひばりは全39曲、2時間半歌い続けました。興奮と感動がピークに達したファンを前に、最後の曲『人生一路』を歌い終えると、どぉっとうねりのような拍手がわき起こりました。

この日ドームに集まったファンばかりでなく、日本中の誰もが「美空ひばりは新しくよみがえった」と思いました。この日のコンサートタイトルそのままに、ひばりは不死鳥のようによみがえり、ふたたび歌の道を永遠に歩いていく、と力強く印象づけたのでした。

しかし、ひばりの症状は予想以上に悪く、こんな状態で歌えるのか?ひばりを知っている人は誰もがそう思っていたといいます。
ひばりを1歩も余分に歩かせない、1分だって余分に立たせない、そんな演出が慎重に用意されたコンサートでした。

ひばり昇天 歌声よ、永遠に

東京ドームでの復活コンサートの翌年、平成元年6月24日午前0時28分、深夜のテレビに流れた「美空ひばり死去」のテロップに、日本中が騒然となりました。享年52。死因は間質性肺炎による呼吸不全。あまりにも早すぎる死でした。

26日の密葬の際には、ひばり邸の前に6千人ものファンが集まったといいます。
そして、最後の最後まで愛された美空ひばりに、その後、国民栄誉賞が贈られました。国民栄誉賞の受賞者としては7人目にあたり、女性としては初の受賞でした。

7月22日には、コロムビア、コマ・スタジアム、東宝の合同葬によるひばりの本葬が営まれました。全国から最後の別れを告げに集まったファンは実に2万人余。この葬儀は札幌、仙台、名古屋、大阪、広島、高松、福岡の7会場にも祭壇が設置され、衛星中継により青山葬儀場と同時進行というこれまでに例のない全国葬でした。

神さまが戦後の日本人のためにこの世につかわされた畢生(ひっせい)のエンターテイナー、美空ひばり。
当代一の歌手であり、女優でもあったひばりは、昭和と命を共にするかのように、昭和終焉の年、空へと旅立っていったのです。

※上記の記事は『美空ひばりの世界』特別編集誌の内容を再編集したものです。

いかがでしたか?
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